古い掟
中東の太陽の暑さの下で十字架につけられた人。脇腹の中に槍が貫かれています。心臓から、血と水が流れます。
神様は唯一、神様は愛です。神様はその唯一さをシオン山で、愛をゴルゴタで現されたのです。ゴルゴタで与えてくれた愛によって、私たちは神様が唯一という本当の意味をわかるようになります。
もし十字架に付けられていた人はただの人間だったら、その死はたいへん残念なことでした。そしてもし偉い分別のある教師の死だったら、私たちは彼の教えをもっと真面目に考える様になるかもしれないでしょう。でも、この方はただの人間ではありませんでした。この方は、父である神がすべてのもを存在させるよう仰った御言葉の人間の姿をとること、または受肉です。この方は、世界中の知人が探していた神が宇宙を順序づける知恵の受肉です。この方は、なぜこの世が存在するかという理由の神様の愛の受肉です。この方の吐いた息は、神様がアダムに命を与えるための精霊と同じのです。彼の脇腹から流れる水は、天国の中で流れている永遠の命を与える湖との同じです。そばから流れる血は、世を養うための食べ物です。
だから、神様の唯一さは、寂しさではありません。十字架の上に亡くなった方は、父が聖霊 によって塗油してくれたメシアというみ子でした。神は父と言と聖霊なので、神は唯一なのに、寂しくありません。その言と聖霊が神と別なものだったら、神は創造する神とは違う神になります。神のみ言は神の心、または神の想像力ですから、心のない人間は本当に人間と言えないのと同じように、もし神に心がなかったら、そのものは神だと言えません。聖霊も同じ通りです。神の外からのものではなくて、神自分自身です。私たちの聖霊に与えてきた命は神以外から与えたものだけではなくて、神様から出るものです。「 私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです。」
もし誰かが、キリスト教の創造の物語は聖書の中のどこにあるかと聞いたら、 もちろん創世記にあると示してあげると思います。 でも、 創世記は創世の物語の 一部だけです。 世界の元を確かに知りたいなら、 十字架につけられた方の槍に貫かれた脇腹を眺めなければならないのです。その傷の中では創造の意味を表す御言は三位一体の命への門みたいなように開けています。
愛のことを考えると、結婚のことを思うでしょう。結婚式で、司祭が「神が合わせられた者を、人は離してはならい」と宣言します。新郎と新婦の二人は一体になることを表します。創世記第2章を思い出せば、イヴはアダムの脇腹から造られました。それから、男と女のお互いへの欲望は、神様が自分で創造したものへの愛の激しさを経験させてくれます。結婚によってその欲望を満たすのは神の創造的な唯一さを味わうことができるようになります。でも、キリストの脇腹から出たのは、このアダムの脇腹から出たのよりも不思議です。キリストの貫いた体から出てきたのは、新しい体である教会というのです。アダムから出たイヴと同じように、キリストから出た教会は、「骨の骨、肉の肉」として、キリストの花嫁です。キリストとの結婚によって、世界は神との一体に引き込まれています。
でも、キリストは結婚の縁結びよりもっと密接な秘蹟によって、私たち自分を与えて下さっています。神様は私たちが自分自身をお互いに与えられないように、私たちに神様自身を与えてくださいます。つまり、自分自身を食べ物としてくださいます。肉体を超えての栄養は、神の知恵、つまり御言なのです。何も残さなくて、自分を私たちに食べさせるために与えてくます。祭壇でいた頂くのは、ただの形見じゃなくて、具体的な形で、神の命と愛で満ちている御言なのです。
でも、私たちはそれを一人で頂くのはではありません。神は私たちに与えられた愛だから、私たちが神と一体になることができるが、一人一人ではそれは不可能です。隣人と一体にならなければ、神と一体になれないのです。むしろ、隣人を通じて、神と一体になるはずです。もし私はキリストを個人的に自分のものとできると思えば、実は、愛を持ってなくて、神を知らないのです。「My own, personal Jesus」(私の個人的なキリスト)の考え方は大きな間違いだと思います。確かに、その考え方は祭壇では通用しません。聖餐式で神の愛を実際に経験すれば、その愛を隣人にあげないわけにはいかない。それは愛の意味です。愛は新型コロナウイルスより感染力が強いものですが、人に与えなければ、成長しないのです。だから、キリストの「神を愛しなさい、隣人を愛しなさい」という掟を守りなさい、と言いますが、結局、愛は命令できることではありません。ただ主イエスの言われたことだけでしたら、あまり意味はないと思います。むしろ、主イエスが私たちを十字架と聖餐式によって愛してくれたから、その掟は意味があります。どの自然法則よりも深い超自然的な掟で、文化や国にも関わらず、全てのもののためなのです。全てのものを神の一体に引き込めるための法則なのです。私たちの外からきた掟ではなくて、私たちの心の中に無償で頂いた贈り物です。その贈り物はまず十字架につけられていた方の脇腹から流れる形、今ではパンとぶどう酒の形で与えられて、「神が 全てにおいて全てとなられるため」、私たちと全てのものを神と一体化させます。神の一体さは、全てのものの一体さのためだからです。