良い知らせです。世界は終わります。
マルコ13:24-32
何時やどうやって終わるかまだ知らないのですが、自分が知っていると思っている人が多いです。核のハルマゲドンやコロナウイルスや気候変動や小惑星などによって、世界の破滅はすぐ来る、と新聞は毎日伝えてきます。
でも、この恐れは新しいことではありません。マルコによる福音書の最初に聞いた人々も、世界がいつ終わるかと知っていると思っていました。兆候を見たと信じて、誠にもうすぐ終わる、と思っていたんです。その兆候は、西暦70年、エルサレムの神殿がローマ軍に破壊されたことでした。
しかし、主イエスによりて、神殿の破壊は待っていた兆候と違っていました。世界の終わりの兆候は、神殿の被害のような災害ではなくて、宇宙的に大災害となります。イエスはもちろんビッグバンぐとビッグクランチの論理のことを知らなかったけど、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の諸力は揺り動かされる」というのは確かにその通りなのです。時間の終わりのことです。しかも、何時終わるかと、誰も知らないと仰ったんです。
それはマルコによると、「福音」、つまり「朗報」の中心です。他の福音書と違って、マルコの福音書によって、今聞いて頂いた話は、イエスの弟子たちへの最後の話でした。マタイとルカの福音書によって、主イエスの最後の話は、福音を宣言するような命令です。そして、ヨハネの福音書によって、お互いを愛しなさいという掟です。でも、マルコの福音書は、福音書の中の一番古いなのに、全く違うメッセージで終わります。「気をつけて、目を覚ましていなさい!」、と。人の子が来て、世界がすぐ終わるからです。
だから、今、降臨節が始まる前、今日の聖書の部分を読みます。降臨節というのは、ただクリスマスの準備のためだけではなくて、キリストの再び来られること、そして死と裁きの準備のための教会歴期節です。
でも、死と裁きは、どうやって「良い知らせ」と言えますか?テクストを見て、認めましょう。
今日の話は、光についてのイメージが満ちているのです。太陽や月や星や惑星は全て、光の源です。しかし、この全てのものが終わると主イエスが仰ります。
それは悪いことではありませんか?でも、人の子が来られる時、その宇宙の光の代わりに、何がきます?それより明るく光る髪の栄光なのです。その光は、モーゼが燃えていた柴で見た光、エリヤが火の車で天に召されたときに経験した光、選ばれた使徒たちがタボル山で変容したイエスの姿で見た光、ペンテコステのときに12人の使徒が火の舌として経験した光と同じ栄光です。この栄光は、「光の父」と呼ばれている神からの創造されていない力です。私たちは、鏡の中のように、光よりの光、闇の中で輝いている我が主イエス・キリストの中でその栄光を見ています。
だからこそ、主イエスはいちじくの木のことを語り始めます。夏の印だからです。世の終わりの時に輝く神の光と比べれば、私たちの光と命の源である太陽でも冬の暗さに似てるようになる、と。それは良い知らせです。
でも皆に良い知らせかどうか、知らないのです。
私たちは皆、「聖霊の神殿」として、心の中で神の光の源を持っています。でも、私たちは自由だから、その源の扉を閉める力も持っています。だからこそ、扉を気をつけて、と主イエスが命じてくださるのです。ざんげ、つまり自分の心の中に戻ってその扉をたたくことは、その光への扉を開き方です。そして、この人生の中でも、私たちはその光の明さと厚さになれるようになれます。精算するとき、主イエスが私の心の中に入って、その扉を滅びてきて、光で溢れせて下さいます。私たちは、その光で満ちて、会う人々の上にも輝くようになります。
だから、結局、マルコの福音書によってのイエスの最後の言葉とその他の福音書のと、関係ないと言えません。自分の心の扉を見れば、隣人を愛して、福音を宣言できるようになってきます。そして、主が再び来られる時、彼の明るくい光に慣れてきているから、それを暖かくて、永遠の命を与えてくれる炎と経験します。それは良い知らせでしょう。
でも、扉を開きたがっていなくて、良い知らせと暗闇の方が好きの方々には、神の光に慣れていないから、その光が燃えて、痛くなるでしょう。でもこれも、この世に迫害されている人々に、朗報だと思います。この世の正義はよく失敗するのに、神の正義は全く失敗しないからのです。
確かに、この世界は将来に終わります。いつ終わるか、私ちは知らないです。だから、待って、見て、働かなければならないです。神様の恩恵のお陰で、ざんげして、全てのものに良い知らせにするように福音を宣言することは、まだ時間が残っています。それも結局、良い知らせではありませんか?