沈黙から、言
神様の言葉の原因は、沈黙です。
17歳から 22歳まで、私は英国軍の予備隊の兵隊でした。実は 、私は砲兵隊でしたけど 、 戦闘衛生兵の訓練も受けました 。 大事なことを習いました。 負傷者を搬送するとき、 大きい声で叫んでいる負傷者 を優先 しないことでした。 優先するべきは、声を出すことのできない負傷者です。 理由は、大声を出せる人は、 出せない人より 重症度が低いからです。
私たちの主イエスキリストは、 まず、 自分の声 を持っていませんでした。 降臨説の2、3目の主日では、洗礼者ヨハネのことに焦点を当てます。 キリストは 神様の 受肉したみ言葉 でしたけど、聖アウグスティヌスによって、そのみことば の声は、 聖ヨハネでした。
しかし、 今日の福音章の話では、 聖ヨハネも、主イエスも、まだ 話すことのできないお腹の子 です。 妊娠している聖母マリアが 親戚のエリザベトを 尋ねに行きます。 エリザベトの胎内の聖ヨハネは、 主イエスの想像を認識して、 何も言えなかったから「 おどった」 と 記されています。 お腹の子として何も話せないのに、その動きで、 認識している本当の人間だと表します。胎内の子が 言葉 を 使わず、 お母さんにコミュニケーション します。 そして、 エリザベトは マリアに その コミュニケーションを 解釈 してあげます。 でも胎内のイエス様 が動いたとは 書いてありません。 その代わり、 次の福音書の部分によって、 マリア様が その 私たちが 毎日夕の祈りで歌う「Magnificat」という賛美を歌います。 それを歌うと、 自分の 息子を代表して、 マリア様も 神の言葉の声 になってきます。
だから、 こう隣接の 4つ目の主日から、 教会の焦点は、 洗礼者ヨハネから マリア様に 行くようになります。 このクリスマス前の最後の1週間 の間、聖母マリアのことを考えて黙想したらいいと思います。
主イエス様は、「 女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大なもの は現れなかった」ですが(Mt 11.11)、「 天の国で最も小さなものでも彼よりは偉大」だと言われました。 マリアは誰も知られていない人でしたけど、 聖ヨハネよりも、 全ての 聖人よりも 偉大な ものになりました。 神である みことば の 母 になるように選べられました。 聖ヨハネと聖マリアは両方 、十字架の道を 歩いたと 間違いないでしょう。 聖ヨハネはヘロド王に殺されました。けれど、イエスのお母さんとして、 聖母マリアは 特別な形でイエスの苦しみを分かち合ったと思います。昔、イブがアダムの脇腹から作られたと逆のように、今、新しいイブの中から、新しいアダムが生まれるところでした。この新しいアダムは十字架を通して、蛇の頭を砕くけど、蛇も彼のかかとを砕いてしまいます。新しいイブとして、聖マリアは新しいアダムとする息子の痛みを他の人の誰よりも辛く分かち合います。だから、聖シメオンが 預言しました、「 あなた自身も劍で心を指し貫かれます」でしょう。
聖ヨハネは自分自身が苦しみを受け、その苦しみは絶対価値がありますが、十字架の意味は、自分で苦しむことより、他の人の苦しみを分かち合うことではないでしょうか?だから、聖ヨハネより、聖マリアは教会の模範になりました。神のみ言葉を生んで、神のみ言葉のために良い知らせの歌を歌って、神のみ言葉を通じて人間の苦しみを分かち合う聖マリアは、私たちの模範、また私たちの母となります。現在の欧米も日本も社会は段々個人主義的になってきましたが、十字架の道は個人的な道ではなくて、他人と共に歩む道です。それは教会の意味です。だから、できるだけ、教会に行って、集まることが大事です。「 運ぶ人と共に喜び、 なく人と共に 泣く」というのは、私たちの務めです。
神のすべてのものを整える言葉は、おとめの空っぽの子宮から、話すことのできない赤ん坊の姿をとって生まれました。そして、12歳の神殿の出来事以来、人生の最初の30年の間、主イエスは、その口から一言も話されることは記されてありません。33歳、ロマ帝国総督ポンテオ・ピラトの前に立ったときも、黙っておられました。語られた時でも、例え話にして意味を隠しました。神の言葉は、大きな声で語ることを好まないようでしょう。
聖ヨハネと聖母マリアを褒め称える理由は、自分の言葉ではなくて、神のみ言葉を語れたからです。聖ヨハネは神の言葉を空っぽの砂漠の中で見つけたが、聖マリアは自分の空っぽの子宮の中で神のみ言葉を生んだのです。ヨハネは説教しましたが、マリアは歌いました。私たちも空っぽで、沈黙があるところを見つけて、神の言葉を探さなければなりませんが、外のところではなくて、マリアみたいなように、自分の中に砂漠を作った方がいいと思います。自分の心の中で真っ直ぐの道を作れば、その心の中の沈黙から、神の静かな言葉が生まれてきます。心の中のことから解放させて、他人のこと、特に他人の苦しみを分かち合えるようになります。
この降臨節の最後の 1週間、 声を発することできない人たち、 黙られされた人々、 そして、 特に、 私たちのために話すことのできないパンになった神のみことばの内に、 神様の小さな声を聞いてみましょう。アーメン。