教会はミッションが弱い理由は、教会は祈りが弱いからです。
私の言葉ではなくて、せいフランシスコ会のグラスハムトンのウィリアム神父のです。誰でしょうか?中世カトリック教会の聖人みたいような名前ですが、実が、ビクトリア時代の英国国教会の司祭でした。
でも、イギリスの修道院は全部、16世紀にヘンリー8世に壊されたではありませんか?はい、もちろん、残念ながら、その通りです。けれでも、19世紀から、英国国教会の中で、新しい修道院が創立されました。ウィリアム神父は私の古里に近くて、グラスハムトンという村でその一つを創立しました。今でも、聖公会のフランシスコ会の修道士がいます。
誰でもがそこでお祈りのリトリートに行っても良いですが、すごく見つけにくいです。道しるべはなくて、大変狭い道の果ての畑の中にあります。確かに、「隠れたところ」です。もちろん、それはウィリアム神父の意志でした。お祈りのためのところを作りたかったからです。
しかし、この世から逃げる意味と違いました。修道院を創立した前、ウィリアム神父は数年ロンドンの一番貧しいところで牧師としました。間違えないで、タッフな人でした。神様が呼んでいると思ったからこそ、その祈りの家を作ろうとしました。教会のミッションが栄えるため、お祈りに尽くす人々が必要だと悟ってきました。修道士の働きは教会の中心だと思っていました。
日本でも、人数は少ないですが、聖公会の修道士がいます。例えば、三鷹のナザレ修道院で、二人のシスターごいます。その修道士の祈りの生活は私たちに素晴らしい証です。しかし、私たちは、修道院じゃなくても、自分の教会や、チャペルや、お家の中でも、お祈りの人になることができます。
主イエスは弟子たちにやり方を教えてくださいました。
まず、隠れたところに行って、とのおすすめでした。「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め。」
そして、「言葉が多ければ、聞き入れっられる」というのは、間違います、と。静かに、言葉をあまり使わなくて、黙想する方が良いです。だからこそ、自分の短い「主の祈り」を教えてくださいました。教会の中で毎日何回も唱えますので、意味を考えず話す危険がありますので、今日は、この有名なお祈りの内容を考えましょう。
最初の言葉は、「天におられる私たちの父よ」です。この言葉で、私たちは私と神様の正しい関係を表します。主イエスの時代では、神様を「父」と呼ぶのは珍しかったですげど、直接に弟子たちにこの言葉を使うのを命令しかす。それは古代の文化のことだけだと言えないと思います。神はもちろん性別のないですが、私たちは神様生まれたということはなくて、私たちは神に作られました。聖書の中で、神様はたまに母の特性を表しますが、父の方が多いです。他の古代の宗教では、女神がいましたが、その女神はよく地球の神々でした。でも、ユダヤ人の神はこの世を超える神なので、地球を神の体ということは間違います。ですので、神は性別を超越しますが、母より、父と呼ぶのは、神様と私たちの間の距離を守ります。神を「父」と呼んで、私たちは全てのものを超えるものにお祈りを始めます。
しかし、神を「私の父」ではなくて、「私たちの父」と呼びます。だから、一人で祈っても、いつも全公開とともにお祈りを捧げます。私たちは分裂された個人の形ではなくて、皆の兄弟姉妹として、全てのものの父親を褒め称えます。
次は、神の「国がきますように」祈ります。しかし、その「国」というのは、「英国」や「日本国」みたいなように、場所ではありません。その言葉の意味は、神の「王政」なのです。神様は、大統領や総書記ではないからです。「国が来ますように」と願うと、私たちは神の臣民だと意味します。私たちは人間として、他の人間と等しいというのは、皆神と等しく違うからです。この世界は、人間の持ち物ではなくて、神のです。私たちは貸しているだけです。そのことを考えて、この世界を保護しなければならないです。
「日毎のかて」は面白い表現です。元のギリシャ語の言葉は大変翻訳しにくいです。本当の意味は、「超自然的」に近いです。それを考えると、この「日毎のかて」の願いは、聖餐式のパンを示すと間違いないです。主の祈りを唱えるとき、私たちはその永遠の命を与える主イエスの体になるパンの方に向かえます。キリストのみ体を通して、神と一つになることを願います。
そのパンはタダでもらいますが、値段は高かったです。値段は、主キリストの十字架の上の死亡でした。しかし、十字架の上彼、自分の殺人を許しました。私たちも許してくださいます。その許しの力を心の深みに感じて、私たちも「人を赦せる」ようになります。そうしたら、私たちは主イエスの十字架で世の全てのものの仲直りの働きに属してなります。神の国は赦しの国だからです。神の赦しによって、誘惑と悪から救われています。
では、チャレンジします。今から、お祈りの時間を作ってください。5分間だけできれば、5分間だけでいいです。隠れたところに行って、5分間の沈黙を守って、黙想して、そしてゆっくり、意味を考えて、主の祈りを唱えて見たらどうでしょうか。初めは難しいけど、好きになると思います。
そして、私たちの祈りが強くなれば、私たちのミッションも強くなる可能性があります。そのミッションというのは、大事なのです。十字架によって、全てのものの仲直りということだからです。