ミサ、天国のキス
ドストエフスキーの小説の中の一番有名な物語は多分、『カラマーゾフの兄弟』からの『大審問官の物語』です。キリストは再び戻って、スペインのセビル市に現れます。ある亡くなった女の子を復活しますと、審問官に逮捕されます。石がパンになるように命じる力を持っていたのに、霊的なパンしか、飢えている人に何も与えたしかないかどで訴えられます。教会は、政治的な力を取って、キリストが失敗したことを正しました。キリストが再び戻ったことは教会に邪魔です、と審問官が言います。だから、キリストは再び死ななければならない、と決断します。
神様は人間の代表するアダムに、美しく茂っている葡萄園の担当を任してくれましたが、私たちは自分が持ち主だと思ってしまって、ただの農夫だと忘れてしまいます。だから、神は預言者という僕たちを送りましたけど、私たちは彼らを断りました。そして、神は自分の息子を送ってきたとき、私たちは彼を殺してしまいました。
主イエスが実際に明日ここに来られたら、今の忙しい教会は気づきますかな。あるいは私たちの活動に邪魔だと思うでしょうか。もう一度、彼を責めて、殺しませんか?
たまに、教会はキリストが既に皆に世の中の一番尊いものを与えていただいたことを忘れているみたいです。というものは、キリスト自分自身です。聖パウロによると、世の何でものものをこの報いと比べたら、ガラクタのように見えます。世の全てのパンはパウロに意味ありませんでした。キリストの信仰という宝物を持っていたから、パウロは貧しさ、鞭打ち、難破のうちでも、自分が世界中の一番金持ちの人と思っていました。
大斎節は、この真実を覚える季節なのです。ニーチェは、クリスチャンたちは自分が本当に救われていると思っているなら、たまに笑顔したら良いと言いました。プロテスタントの牧師の息子として、そのことをよく存じたでしょう。大祭節でも、嘆くばかりのためではありません。主イエスは私たちに、自分の断食を隠すように命じられました。断食するとき、顔を洗って、油をつけることなどを命じましたでしょう。その命令は、自分の中の苦しみを隠すためではありませんでした。逆に、この世の永遠の命を与えられないものの欲望から解放されて、永遠の喜びを与える天国のものに注目できるようになるわけ、今でも喜ぶための季節です。何を食べることや、何を着ることを心配するのは、不幸への道です。断食というのは、体重が軽くなるためより、魂が軽くなるためです。
しかし、いつも何を感じても笑顔するはずわけではありません。最も綺麗な音楽のみたいなように、喜びは涙と混じり合うことがあると間違いないです。さて、涙と混じった喜びは、まだ喜びです。だから、聖金曜日は英語で「Good Friday」と呼ばれています。神の子が殺された日には、変な名前と思いませんか?でも、神が砂漠から水を引くことと同じように、人を殺すために作られた十字架から、永遠の命を作ります。
まだ、大斎節という断食の季節ですけれども、日曜日はいつも復活日の記念祭りです。祭壇で、キリストの死んでいる体ではなく、キリストの永遠に生きている体と血を養っていただきます。ミサでは、先週の「放蕩息子」の話に出たと似ているように、踊りと音楽が満ちている天国の祝宴を味わえるようになります。天使と全ての聖人たちと共に、永遠の命に与えるぶどう酒を飲むのは、良い農夫の報いです。「安息日の主」である主キリストは、不安と忙しさではなく、安らぎと喜びを与えるために私たちの中に生まれて、殺されて、復活されたからです。
ちなみに、ドストエフスキーのいつも忙しい大審問官は結局、キリストを殺しませんでした。我が主は、一言も言わず、乗り出して、その老人に口づけしました。審問官は、イエスを離れさせましたけど、悔い改めなかったので、悲しい人生を過ごしたと思います。今日、私たちの口が彼の尊い体に触るとき、正直な悔い改めの中で、喜びませんか。