神って、何?
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと は思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人 間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりま した。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひ ざまずき、 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神を たたえるのです。
フィリピ 2:6-11
今週は、授業が始まるもので、大学には大事な一週間ですが、教会には、たぶん何より大事な週だともいます。というのは、「聖週」という、復活日の前の1週間だからです。昨日は、世界中の教会はイエスさまのエルサレムへの城上を記念して、今から、彼の人生の最後の1週間を記念します。聖木曜日の夜では、主イエスと弟子達の最後の食事を記念します。その食事で、イエスは聖餐式を創立して、弟子達に「今から、このように行いなさい」と命じられて、その後、ゲッセマネという庭に行って、弟子達と共に祈りながら、夜中で、裏切りのユダが連れてきたローマ軍の兵隊に逮捕されました。それは、聖木曜日のことです。次の日では、主イエスが裁判にかけられて、十字架につけられて、処刑されました。聖金曜日では、イエスの苦しみを記念するための礼拝を捧げて、十字架を褒めたたえます。そして、復活日の前の夜から、イエスの復活を記念して、聖週の悲しさを取り残して、喜んで、キリストの永遠の命を与える光をほめたたえます。
今日の朗読)は、キリスト教の信仰を簡潔に示す。周知の通り、聖書は旧約聖書と新約聖書から成っています。旧約聖書はヘブライ語で書かれて、ユダヤ人の聖書で、新約聖書はギリシャ語で書かれたキリスト教についての部分でしょう。今日読んでくれたギリシャの東北にあるフィリピという街の信徒への手紙は、新約聖書の中の聖パウロという方からの手紙なのです。四つの福音書はイエスの人生を示す本ですが、この聖パウロからの手紙は全て、福音書より古い文章です。だから、何よりも早いキリスト教の信仰のことを知りたいなら、手紙の方を読んだらいいです。でも、この手紙の中で、より古い部分が入っています。というのは、今日の朗読です。この朗読は、新約聖書が書かれた前からのクリスチャンの古い賛美歌だ、と聖書学者が思っています。だから、これはキリスト教のイエスについてのとても早い思想を表します。
キリスト教の基本を分かるため、クリスマスとイースター、つまりキリストの降誕日と復活日を考えたらいいです。その二つの祭りは、キリスト教の二つの柱みたいなものです。今日の朗読は、その二つの出来事を簡潔に示す。イエスの教えや、奇跡)などより、キリストは誰かに関しての文章です。キリスト教の考えによると、イエスはただの良い人や良い先生のみならず、「神と等しいもの」や神そのものだと信じられています。だから、キリストが生まれたこと、つまり「クリスマス」は、神がへりくだって、自分の力を捨てて、力のない人間の赤ん坊となったことを示す。キリストは力のない貧しくて病気な人と食事したことは、神様がその人々を慰めて、共に食事したことを意味します。そして、キリストは十字架で自分の命を他人のために捨てて、自分を十字架にかけた人々を許したことは、神様が自分の命を私たちに与えてくれて、罪人のわたしたちを許してくれると意味します。
この通り、キリスト教の信仰によると、イエスは現実の真理を明らかにします。「神」というのは、あの川の神や、あの山の神の中のもう一人の神様ではなくて、全てのものを超える万物の源を意味します。その源は、十字架の形の通り、自分を空っぽにして、自分を無にして、私たちとこの世の全てのものに存在と命を与えます。だから、聖ヨハネは神を「愛」と呼びました。でも、その上に、主キリストの受肉、死と復活を通じて、その愛という万物の源である神に戻る可能性がある、とキリスト教が教えます。つまり、神と一つになる道があります。キリストは、良い人生の模範や、価値観を教えるものばかりでなく、宇宙の現実を明らかにする神の生きているみ言葉のように考えたら、なぜ「天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスのみ名にひざまずく」かということを分かるようになると思います。大学生として、これを分かってきたら、欧米の文学、美術、音楽、聖歌なども、もっと深く分かるようになると思います。でも、その上、この聖なる一週間という「聖週」の間、このチャペルで、私たちが毎日「神」というものに祈りをささげる時、実際にどのような神に祈っているかと、もっと深く分かるようになってきたら、私は嬉しいと思います。というのは、私たちのために、自分を無にして、全てを与えてくれる神様です。